イエスの死とは何か?
ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。(ヨハネ19:31)
今回の「聴く信仰―『いのち』をいただく御言葉黙想」では、
この「足を折って」という普段あまり目に留まらないような言葉を手がかりに、
イエスの死について黙想を深めていきます。
キリスト教放送局 日本FEBCの公式サイト
ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。(ヨハネ19:31)
今回の「聴く信仰―『いのち』をいただく御言葉黙想」では、
この「足を折って」という普段あまり目に留まらないような言葉を手がかりに、
イエスの死について黙想を深めていきます。
1945年5月。中学生の時に「おとり兵」として従軍した、日本聖公会引退司祭の小貫雅夫さん。主イエスが語る平和とは何か。この世に対して神様の言葉を語るとは、どういうことであるかをおうかがいしました。(8/2「主イエスは私たちに何を問うているのか―ふたりの戦争体験者の証言から前半(再)」)
聖書の教えをそのまま素直に実践すること。日々の生活の中で人として正しいって感じる道徳を身に付けて行く時に、聖書の教えをわかった気がすること。この2つのパターンはどちらが良いのだろう。みたいなことをいつも迷いながら考えています。
クリスチャンとしての道を外れてしまう時も多いし、聖書をそのまま受け入れて実践するような人間には成れていません。一日一日生活する中どうしても信仰と主から外れてしまいます。
突然他人から優しくされる恵みもあります。その時には神さまに感謝します。そして、自分でも他者に優しくしたりしてオアシスのような時間があったりします。けれど、信仰を賜ってから何年、何十年経っても、コーチの教え通りに練習し試合で発揮して勝って、やったあ!と言ったことはほとんどありません。信仰の道程は誰でもこういうものなのでしょうか?
番組「Echo of voices」7/28より
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思いを言葉にするって難しいですよね。
でも、言葉にして誰かと分かち合う中で、
初めて気づく自分の本当の思いに出会うことがあります。
日常の中での思いや、誰かに聴いてほしいことなど、ぜひお寄せください。
FEBCのスタッフとお便りを交換しながら一緒に聖書に向かい合い、言葉にならない思いを言葉にしていくユニークな聖書通信講座「ティールーム」(無料)のお申し込みもお待ちしています。
ティールームのご案内>>
記録的な暑さが続く中で、日本人にとって「平和」を問う季節となりました。
でも、平和はどこから始まるのでしょう。
あらゆる人知を超える神の平和(フィリピ4:7)
この夏、あなた様とご一緒に、私たちの常識とはかけ離れた、人知を超えるキリストの平和を祈り求めていきたいと願います。
ここに教会の垣根を超えてイエス・キリストを共に探し求めるFEBCの存在理由があります。
この福音を分かち合うFEBCの働きのため、夏季献金へのご協力をお願いいたします!
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