イエスに従いゆく

FEBC特別番組 認知症とは何か?
武田なほみ(上智大学神学部教授)聞き手:長倉崇宣
2月12日、19日放送「『私の人生』を失わないために」

FEBC月刊誌2022年2月増刊号記事より

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—ご専門の見地から、人間の老年期の課題を、どう捉えられていますか?

 私は、成人発達心理学あるいは生涯発達心理学という、人間が一生涯を通してどう変化していくかをキリスト教信仰の眼差しで捉え直すことをしているのですが、老年期を、人間関係などその方をその方足らしめていた人々やものとの別れを経験する時期とすると、その課題は、長年深く関わってきた仕事等の活動からの離脱やそれまで出来ていたことも出来なくなることをどう受け止めるのかということになりますよね。これを「与えられたものをお返ししていく」と言えば綺麗なのですが、その渦中にあっては、自分という存在がもぎ取られるような物凄い痛みを経験します。ですから、その出来事と向き合って、その中でなお私として生きていくかは、もの凄く難しいことです。

 エリック・エリクソンという心理学者は人間の生涯を8つの段階に分け、それぞれの時期毎に課題があると言っています。その中で、彼は老年期の課題を統合と絶望の間を揺れ動くという意味で「統合対絶望の間の葛藤」と述べているんですね。更に今では後期高齢者と言われるその先の段階について、彼と共に研究していた妻のジョアン・エリクソンは「第9段階」だと言って、絶望に傾きやすくなる人間の課題に言及しています。

 では何故、神様は人生の最後に一番難しい課題を取っておかれたのか。これは人間をどう見るかによります。人間の成長や発達を考える時、何かが出来るようになっていくプロセスは人間にとってとても大切です。しかし、実はそれで人間の発達は終わらないということなのかも知れません。もちろん、老いて衰えていくのは辛いことです。しかし、人生とはそれだけのことなのでしょうか?

  私は現在、認知症の母の面倒を看ています。そして、会う度に何度も同じ話を繰り返すのです。母は音楽家でしたが、しかし不思議なことに、音楽の道に進んだ後の活動の話は全く出てこないのです。そうではなくて、幼い頃に音大に行くきっかけになった話を繰り返す。人間って認知症になっても思い出すのは、人生の何十年間も費やしてきた「活動」の話ではなく、「私が『大切な存在』として見られるというその眼差しを受けた体験」なのだと思っています。色んなものが確かでなくなる中で、そういう「素の私」で受け止められた経験に戻っていくんじゃないかと。それを繰り返し確認しながら、一歩を歩み出す。それは、私たちにとっての「前に進む」ことかは分かりません。しかし、キリスト教の信仰からすると、「素の私」「本当の私」を待っていて丸ごと受け入れてくれる神様の許へと進んでいく歩みだと思うのです。もちろん、傍らにいる者は、何度も同じ話を聞かされると「またか…」と思ってしまいますけどね。でも、その確認が確かになされるように、私たちも「大切な者として眼差しを受ける」という体験を一緒に味わわせて頂きたいと思っています。

—認知症の厳しさは「私は一体誰なんだ」というご本人の強い不安とともに、その傍らにある方にとっても、ご本人との関係性まで壊れてしまうように感じるところにあると思うのですが。

 それは本当に悲しいことです。だからその悲しみを抱えて、認知症の方やその周りに居る方も含めて、「どうか神様受け取って下さい」と祈ることではないでしょうか。私自身も、自分が老いや病を通っていくことを考えるとどうしても尻込みしないではいられません。正直に言えば、出来ればそれ無しでいきたいと思う。でも、イエス様こそ、この十字架を負う道を通って下さった。もちろん、この歩みの只中には悲しみや苦しみが沢山あります。でも「私が私で無くなる歩み」を、私に先んじて歩んで下さったイエスご自身と繋がりながら、私は一歩一歩を歩みたいと思います。その時、「前」に進めなくても良いのではないでしょうか。むしろ、今ここに生かされている私を生きる、ただそれだけのことに集中して生きる。その傍らにおられる人も、その現実は物凄く大変だからこそ、その認知症の方を生かしておられる御方のいのちに一緒に生かされる神秘を味わうということが私たちの人生だと思うのです。これは私たちが計画して経験することではありません。その認知症の方をその内側から生かしているいのちそのものが、今ここで、この私をも共に生かしていることに共に与る。この経験が、この「私の人生」に欠かせないと思うのです。

 (文責・月刊誌編集部)

 


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