8/5 癒やしと神の復権


FEBC特別番組  コロナ時代のメンタルヘルス  
中道基夫(日本基督教団正教師、学校法人関西学院院長)お相手・長倉崇宣
8月5日(金)放送「第4回 信仰の神秘の回復—『癒やしの礼拝』から」

FEBC月刊誌2022年8月記事より

・・・

—コロナ禍によって未だ心身に不調を覚えておられる方が少なくないですが、教会とキリスト者はこれにどう向き合うべきでしょうか?


 聖書には

「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」(マタイ4:23)


とあります。
  ここから、イエスの宣教の三本柱は、教えること・福音を宣教すること・癒やすことだったと分かりますよね。でも、現代の私たちはどうでしょうか?癒やしには関わりを出来るだけ持たないようになっています。けれども、それを取り戻さないと、本来のイエスの宣教の力を取り戻せないのではとも思うのです。

—癒やしを取り戻すとは?
 
  確かに聖書の時代のように、病気や障害を持っている人がここに来れば癒やされるとは言えません。けれども、疾病を取り除いて元の状態に戻すことだけが癒やしでしょうか。私は病というのは「語り」だと思うのですね。例えば、私達が病気になって病院に行くと「どうされましたか?」と聞かれますよね。そうすると「ちょっと疲れ気味で、喉が痛くて…」と自分のことを語ります。それは病状の説明というだけでなく、自分の物語を語っているのです。だから、その物語が癒やされる必要がある。なぜなら「咳が出て熱もある…ひょっとしたらコロナに罹ったかもしれない。仕事は、家族はどうなるんだろうか!?」という不安は、「語られるもの」だからです。ですからまず、それを語ることが出来る場所があるということと、それを聴いてくれる人がいることが、癒やしに必要となってきます。ここに教会が、自らの宣教の課題として、そのような場を持っているのかが問われているのではないでしょうか。

—ただ「癒やし」は、ただ病気が治ることと誤解されてしまうのではないでしょうか?

 確かにそうですね。私はただ、スイス・バーゼルにある教会で『癒やしの礼拝』というものを経験したことがあるんです。その礼拝は非常に静かなもので、病気を抱えた多くの人が集まってくるのですが、その場では別に病気は治りません。けれども、その病気とどう生きていくのかが変わるのです。言い換えれば、その病気と共に生きていくという癒やしを人々は発見すると言えるでしょう。そもそも聖書の時代にもその当時の医学はあり、病気になったら皆、医者のところに行っていたのです。にもかかわらず、何故イエスのところに人々は来たのか。それは病気が治ること以上に、医者のところでは満たされないものを抱えていたからではないでしょうか。そこに現代の教会にも続く宣教課題があると思うのです。

—「癒やし」が現代の教会の宣教の課題なんですね?
 
  ここ100年くらいで医学が専門化・細分化しつつ物凄く発達しました。それは、以前には深く結びついていた宗教と切り離されていくことでもありました。問題は、宗教の方が自分たちの内側に閉じこもってしまった事にあるのではないでしょうか。それは聖書の読み方にも反映しているように思います。例えば、現代の多くの説教者は「目が開かれた」という聖書箇所を「信仰の目が開かれた」と読み替えます。それは聴く私たちも同じですよね。けれど、果たしてそれで良いのでしょうか?読み替えによって、聖書本来のダイナミックなメッセージを失ってしまってはいないかと思うのです。つまり、癒やしを信仰的に「解釈する」だけではなくて、肉体的・社会的、さらには魂の領域に及ぶものとして考えるべきなのです。

 ある方が「現代は大きなストーリーの中に小さなストーリーがかき消される時代」と仰っておられました。それは例えば、私たちは今も「新規感染者数が何千人」という話を毎日聞かされ、一喜一憂してきました。しかし、そういう大きなストーリーの中で忘れ去られている小さなストーリーがあるのではないかと思うのです。それは一人ひとりの魂の問題のことです。それらがかき消されそうになる中で、私たちはそれらを大切にし、祈る場をもっと意識すべきなのではないでしょうか。  聖書も同じです。旧約から新約を貫く神の救済の歴史が大きなストーリーの一つだとすれば、この大きなストーリーもまた、聖書の中に出てくる小さなストーリーである個人が変えていく。例えば、シリア・フェニキアの女性(マルコ7:24~30)がそうですよね。この外国人の女性は、イエスのところに来て、娘を癒やして下さいと言います。そうすると、イエスは「子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」と彼女の願いを一度は断る。しかし、この女性が「食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」と応えたことによって、イエスの考えや行動を変えますよね。つまり、小さなストーリーが大きなストーリーをより豊かにしていくのです。ですから私たちも、「一人ひとりのコロナ禍」「一人ひとりの病」「一人ひとりの痛み」に目を向けることによって、このコロナ禍の中で教会として為すべきことが見えてくるのではないかと思うのです。

 「教会には、ペトロとパウロとヨハネが必要だ」という誰かの言葉を聞いたことがあります。ペトロは教会を立てあげていく制度を、パウロはもちろん知性を、そしてヨハネは神秘性を意味しています。この神秘性が、現代の教会では非常に小さくなってしまっている。私は、癒やしが脇に追いやられているのと関係しているように思えるのです。確かに、制度と知性は自分たちでコントロール出来ますが、神秘性や霊性はそういう訳にはいかないからです。だからこそ重要なんです。だからこそ、ここに現代の教会の危機や課題があるのではないでしょうか。   

 (文責・月刊誌編集部)

 



 月刊誌「FEBC1566」購読申し込みページへ>>