十字架への道


イエスの、ことばの、その根―雨宮神父の福音書講座(再) 
雨宮慧(カトリック東京教区司祭、上智大学神学部名誉教授)お相手・長倉崇宣
9月9日(金)放送 第12回・最終回「『本当に、この人は神の子だった』―言葉を超えたイエスの死の深み」マルコ15:33~39、ほか

FEBC月刊誌2022年9月記事より

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百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 (マルコ15:39)

 この百人隊長は、マタイ・マルコ・ルカの共観福音書の全てに登場し、彼が語る言葉はほぼ同じです。しかしマルコでは、イエスの死の姿に「本当に、この人は神の子だった」と言えるような説明がどこにもありません。強いて言えば「このように息を引き取られた」のを見たからということになる。そこで、初期の教会の信仰がよく表されている「キリスト賛歌」として知られるフィリピの信徒への手紙2章6~11節を見るところから始めたいと思います。

6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、

  7 かえって自分を無にして(空っぽにして)a、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。

  人間の姿で現れ、

    8 へりくだって(神に対して身を低くして)b、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

    9 このため、神はキリストを高く上げ b’

   あらゆる名にまさる名を(豊かに)お与えになりました a’

10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、

11すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

 

  7節の「無にして」は直訳すると「空っぽにする」、8節の「へりくだって」は「神に対して身を低くする」の意味です。ですから、6~8節の「キリストが取った態度・姿勢」に対応するように、9節では「神のキリストに示した態度が」反対語で表されています。私はここにキリストと神の連帯を見るのです。つまり、マルコが伝える百人隊長の言葉の背後にはフィリピ2章の「キリスト賛歌」があるのではないかと。  

 マルコが語りたかったのは、百人隊長が見た「このように息を引き取られた」イエスであり、それは自分を低くし、自分を空っぽにして、神の導きを待つという生き方ではないでしょうか。  

 これは、まさにフィリピ2章の「キリスト賛歌」におけるイエスの姿です。  

 だから、マルコのこの言葉には「言葉にすることが出来ない深み」がある。そして私たちはこのマルコのこの深みを手がかりに、「イエスとは私にとって誰なのか」を考えていくことができます。そしてこのことは、イエスに従おうとする者にとって、その生き方に直結する問題となります。  

 そこで、同じマルコの盲人バルティマイの癒やしの箇所から見てみましょう。

一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端にc座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。…(中略)…イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従ったd。(マルコ10:46〜52)

 ここでは「道」が大きなテーマとなっています。と言うのは「道端に」(c)を直訳すると、「その道の傍らで」となり、「その道」と冠詞が付いているのです。つまり、どの道でもいい訳ではなく、「あの道」というニュアンスです。更に、「なお道を進まれるイエスに従った」(d)を直訳すると、「その道を、イエスに従った」となります。従って、次のようになります。  

「その道」の傍らにいたバルティマイが、
「その道」の上に乗るようにイエスに呼ばれて、
そして「その道」をイエスに従った。

 では、「その道」とは一体何でしょうか。このバルティマイの話の前である10章32~34節には、主イエスがご自分の死と復活を予告する三度目の出来事が描かれています。つまり、「その道」とはエルサレムへの道であり、十字架に向けての道に他なりません。  

 ですから、マルコが我々に期待していることは、バルティマイのように、十字架への道に登ってイエスに従って欲しいということなのです。自分で作り出す道ではなく、神から与えられる道。それは、必ず十字架を経る道であり、それこそが神が与える栄光なのだとマルコは考えているのです。このことは、イエスに従う者の、その生き方が問われているのです。

 (文責・月刊誌編集部)

 



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