復活の命の使命

生きるとは、キリスト 
小林 和夫(日本ホーリネス教団東京聖書学院教会牧師)
4月21日放送「復活の信仰と新しい命」ヨハネによる福音書20章1節~10節、19節~23節

FEBC月刊誌2023年4月増刊号記事より

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 キリストの復活は、そうたやすく理性的には信ずることができません。かく言う私も、実はそうでした。しかし聖書は、まさにこのイエス・キリストの十字架と復活を信じることによって私どもが救われるんだと突きつけているのです。


 実は聖書にはイエス・キリストの復活ということは書いてないんです。えっ?と思われるかもしれませんが、どう復活したかはどこにもありません。しかし、その代わりに甦ったイエス様にお会いした人が何人も出てきます。ここに、聖書が伝える復活の独自性があると思うのです。それはマルチン・ルターがいみじくも「聖なる神は愛の故に自らを現してくださるが、聖なる神と人間の罪深さとの間に横たわるギャップの故に、自らを隠しつつ現す御方である」と言った通りであります。


 その布を「見て、信じた」とあります。いいですか!これ以上、人間はキリストの復活を歴史的に査察することを許されなかったのです。しかし、それは言いかえれば神がここまで神の事実を見ることを人間に許したもうたことでもあります。それが「見て、信じた」という言葉です。実に復活とは信仰によって受け取る事実であるというのが、聖書のメッセージなのです。


 そして、隠れたる神が信じる者に出会われるのです。


弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。…彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」 (20:19、22~23)


 復活なさったイエス様は、死の中に自ら飛び込み、死を征服し、死から帰ってきてくださった。そして新しい命を持ちたもうイエスとして、弟子たちに新しい命を伝達なさった。その象徴的な行為が22節の「息を吹きかける」ということです。旧約聖書の最初にある創世記には、神が「息」を吹きかけると、「人即ち生ける者となりぬ」とある。だから、まさにここで復活の神の命が弟子たちにバトンタッチされたのだ!そうです。このイエス様の息がかかった者、それがクリスチャンです。


 だからイエス様は、クリスチャンに向かって、「私の代わりに『あなたの罪は赦された』と宣言せよ」とお命じになる。クリスチャンに新しい命を与えるだけでなく、新しい使命に立たせたのが、この主の復活という神の事実なのです。愛する皆さん、なんという幸いなことでしょうか!

 (文責・月刊誌編集部)

 



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