自分の力に頼る限りは見えないもの

罪人の頭たちの聖書のことば 
石垣 弘毅(日本基督教団中標津伝道所牧師)お相手・長倉崇宣(FEBCパーソナリティ)
6月28日(水)、7月5日(水)放送「『わたしの裁き』—神を畏れて生きるとは何か」詩編76、ヨハネ5:19~30

FEBC月刊誌2023年7月増刊号記事より

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勇敢な者も狂気のうちに眠り 戦士も手の力を振るいえなくなる。 ヤコブの神よ、あなたが叱咤されると 戦車も馬も深い眠りに陥る。 あなたこそ、あなたこそ恐るべき方。 怒りを発せられるとき、誰が御前に立ちえよう。 あなたは天から裁きを告知し 地は畏れて鎮まる。(詩編76:6~9)

長倉
この「恐るべき方」という言葉が目に留まりました。ここではどんな意味だろうかって。

石垣
確かに武力にはもっと強力な武力で立ち向かうというような「恐れ」ではないですよね。神は圧倒的な力で一網打尽にするのではなくて、ここでは敵は眠らされてしまう。つまり、「無力にされる」というところに神を恐れるということの本質があるかもしれません。



イエス様はゲッセマネの園で「目を覚ましていなさい」と語られました。その時、弟子たちは眠りこんでしまいますよね。それでも、イエス様を捕らえようと人がやってくると、ハッと目を覚まして武器で抵抗しようとしたわけです。しかし、それに対してイエス様は「やめなさい」と仰る。私はその場面を思い起こしたんですね。あの時、確かにペテロはイエス様から「目を覚ましている」ことを求められた。けれども、それはただ目を開けて肉体的に起きているという意味ではないですよね。彼は自分の力で敵を追い払おうとしたくらいなんです。むしろ、そういう生き方や人生の態度をイエス様はあえて「寝ている」と言われたのかなと思ったんです。

長倉
力には力をという生き方や態度が「寝ている」ということですか?

石垣
はい。「私はイエスを絶対に裏切らないし、敵が来ても死んでも戦い抜く」というペテロの姿勢を、イエス様は「寝ている」と仰ったんじゃないかって。

長倉
ええ!でも普通は、敵が来ないように見張って武器で戦うことこそ目覚めていると考えるんじゃないかと思うんですけど?

石垣
そうですよね。だからこそ、それは逆なんだと思うんですよね。人の力にどこまでも依存して生きようとする生き方こそが、イエス様にとって「寝ている」ということなんだと。

長倉
ああ!確かにイエス様のたとえ話のようですね。目覚めていると思っている者は寝ていて、寝ているようにしか思えない者は神に於いて目覚めているということですね。

石垣

そう、そう。そもそも眠るということは、人間が全く無力にされるということです。無力にされるということ。その中で神を恐れるということを思い巡らしてみたいですよね。
私がここで思い出すのは、イエス様がみどり児としてお生まれになったことです。そして、そのみどり児のイエス様を羊飼いや東方の博士達がひれ伏して拝んだ。相手は赤ちゃんです。

けれども、ここには神への恐れがあった。もちろん、その恐れは、この赤ちゃんに特別な力があったとかではないと思います。本当に無力で小さくて放っておけばすぐ死んでしまうような赤ちゃんです。しかし、彼らはそのみどり児を見てひれ伏した。だから、私たちが神を恐れるというのは、私たちが砕かれるということ無しには見えてこないのだと思いますよね。

はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。 …わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」
(ヨハネ5:24、30)


長倉
先ほどの詩編76編にも「裁き」という言葉がありましたが、ここではイエス様が「裁き」という言葉を繰り返しておられますよね。

石垣
この「裁き」って何でしょうかね?

長倉
う~ん。何となく不思議な裁きだなって思います。

石垣
それは面白い表現ですね。「不思議な裁き」って聞いて、私は詩編118編を思い出したんですよ。
こうありますよね。

家を建てる者の退けた石が  隅の親石となった。 これは主の御業 わたしたちの目には驚くべきこと。
(詩編118:22~23)

石垣
こんなものは役に立たないと捨てた石が、神殿の最も基礎を支える大事な隅の親石になった。この主の御業は「不思議だ」と言っているんですよね。私は、ここに先ほどのイエス様の「裁き」があると思うんです。つまり、神様は神殿を建てるために素晴らしい石を私たちに送ってくださった。しかし私たちは、「何これ?こんなの何の役にも立たないよ」と捨ててしまう。そう考えると、私たちも自分の人生の中で、神様からこういう「石」が送られてきていると思うんです。問題はそれを捨てるのか、あるいは人生の大事な土台として据えるのか、ですよね。

長倉
そうですね。私たちも、そういうものを邪魔な石だと思って捨ててきたんですよね。

石垣
そうですよね。もし人生の中で捨てたくなるような石が、天から贈られてきた人生の土台となる石だとしたら…。そこには、イエス様の御心が込められているのだと思います。確かに、苦しくて惨めに思えるような場面は、誰の人生にもあるでしょう。

石垣
だからこそ、それを捨てるのか、大切な礎石とするのかで大きく変わってきてしまう。それは人が自分の力で造り出す人生ではなくて、神が創造される「私」の人生があると思うんです。

長倉
私たちはすぐ他人と比べてしまうけれど、この「私」の人生は、私だけのものですよね。他人と取り替えられないもの。

石垣
本当にそうだと思います。確かにそれは、自分では捨てたくなるようなものかもしれません。でも、大切なのは「今、ここ」なんですよね。惨めに感じ、捨て去りたいと願っている「今、ここ」で、私たちは私だけの人生として主イエスの命に与るんです。
だからこの与えられている「石」を優しく握りしめたいと思うんです。その時、私の内から生きる力が湧いてくるようなイエスの言葉が聴こえてくる。それは一人ひとり違うはずです。それは聖霊が語りかける言葉だから。本当に不思議なことです。


 (文責・月刊誌編集部)

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