我らを悪より救いいだしたまえ ―地獄に生きる者の希望

FEBC特別番組 シリーズ「和解の交わり」(再) 
ゲオルギイ松島雄一(日本正教会大阪ハリストス正教会管轄司祭)
中川博道(カトリック・カルメル会宇治修道院司祭)
聞き手・長倉崇宣
8月12日(土)、19日(土)放送

FEBC月刊誌2023年8月記事より

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—バラバラにみえる教会の実情をどのように受け止めておられますか?

松島
 まず私たち正教会は、ニケア・コンスタンチノープル信条にある「一つの、聖なる、公なる使徒の教会」を告白していますよね。だから、教会が私たちの目にどんなに分裂しているように見えても、ハリストスがお建てになったものであり、バラバラになっているのではないと信じる、ここから始めたいと思います。

中川
 カトリック教会も特に21世紀を迎えて、この地球上でキリスト者としてどう生きていくかの仕切り直しをしてきました。もう一度キリストに出会い直すというところから再出発していくことが大切だからです。その教会の歩みの中で、私自身も色々な教派の方々と対話をさせて頂き、新たな出会いを頂いています。


—しかし、教会の現実にガッカリするというのが人としては正直なところでは?

松島
 正教会は、今危機の中にあります。だから今こそ「教会そのもの」を信じたい。ハリストスの教会を、です。私は、信徒の方とずっと話しをしてきました。「何でこんなことになってしまったのか」「この状況に対して、教会は何をしてきたのか」「もうこの教会には留まれない」「平気で人殺しをするような者を祝福する教会の信仰を、子どもたちに説明できない」。色々なご意見があるのです。そこで私は、私たち正教会の信仰を確認してきました。
 教会にはロシア人もウクライナ人も一緒にいます。そこで見失いたくないのは、ここはロシアの教会ではないし、ウクライナの教会でも、ましてや日本の教会でもないということです。「神様から集められた交わり」なのです。
 だから、この交わりの中で、具体的に私たちが許し合うことを積み重ねていくしかない。それこそが、今私たちが求めなければならないものです。強い者によってつくり出す平和は、本当の平和ではないからです。

中川
 カトリック教会もご存知の通り、他国の征服を祝福してきた時代がありました。そして今も、教会の中に絶え間ない争いがあることを認めざるを得ません。だからこそ、まず心底から、この「私」に向けられている神様の赦しと愛を認めることからでしか、私たちは新しい一歩は始められないのではないでしょうか。キリストと出会い直すしか、私たちの生きる道はないのだと思うのです。



松島
 ドフトエフスキーの小説『カラマーゾフの兄弟』の登場人物のゾシマ長老の言葉にこんなものがあります。「私の兄は小鳥にまで赦しを求めた。その赦しは一見無意味なものに思えるかもしれないが、それこそは正に真理なのだ。なぜなら、全ては大海のようなもので常に流れ、触れ合っているので、その一端に触れれば、世界の別の端でそれがこだまするからだ。」
 神様がお造りになった世界は元々一体であって、人間も例外ではありません。だから、ある高校生から「何故戦争は起きるのか?」と質問された時、「一人ひとりが小さな憎しみを克服出来ないから」と答えました。あらゆる戦争は「私」の出来事なんです。私が、もし自分の小さな憎しみを克服出来たら、地球の裏で銃口が降ろされることに繋がるかもしれない。これは夢物語なのか?それでも私は、クリスチャンとしての唯一の立場だと思う。よく「祈ったって何の意味があるの」と言われます。ただ教会は信じています。「もし人が祈らなければ、この世界はとっくに壊れていただろう」と。教会は祈りの力を本気で信じるのです。


—リスナーから先日お手紙を頂き、「教会は小さな地獄だ」とありました。

松島
 そうですね。これはエジプトのマカリオスという人の言葉ですが、「地獄に留まりなさい、しかし、決して絶望してはならない」。教会の現実が地獄でないなんて、決して言えませんよね。
 私たちはこの地上の、この街の教会で生きているんですよね。つまり、俗っぽい暮らしの中で、いかに許し合ったり助け合ったりするのか。そこにある「愛の骨折り」の辛さや痛みから逃げることはできません。つい先日も信徒の方とその難しさについて話していたんですが、最後の最後には「ハリストスがいらっしゃるじゃないか」ということに行き着く他無かったんです。
 では、「どうしたらそのハリストスと出会えるか」が生命線になる。ドロドロしたものを抱えている教会の只中で、しかし私たちは「ご聖体を頂く生活」をしている。「取って食べよ」と差し出されているものがある!ここです。ここで、私たちはハリストスと一致出来るんです。しかも、ご聖体は仲間と一緒に受けるものです。ハリストスを身体の中に受け止めた人たちの交わり。ここに私たちが希望を見い出せるかですよね。だから、教会は神様との出会いを求めている人に最初に言わなければいけない。こんな自分がご聖体の前に口を開けて、それを頂くなんてと躊躇する人のためのハリストスの身体なのだと。この矛盾しているかのような現実に神様の愛のリアリティがある。私たちは、ここから始めたいと思うのです。

中川
 私も今、一人の司祭として毎日ミサを祝いながら思うことは、食べることは、生きているものを口の中に入れて噛み砕いて消していくことだということです。ですから、ご聖体を頂くことは、神様を殺すこと。ご自分を殺しながら食べて飲み込んでいくその人に、イエスはご自分の全てを与え尽くして、一緒にいて、その人の力になろうとする。それがミサを生きるということです。
 この今の時代、誰もが分かち合い切れない孤独を抱えている。この中で、神が共に苦しみながらなんとか私たちを復活へと導こうと関わり続けておられる。これが私たちの信仰、希望の根拠です。人類にとって大きな苦しみのこの時、どこかの誰かに責任を負わせるのでなく、教会が責める方にも責められる方のためにも祈る理由は、ここにあるのだと私は思います。


中川
イエスが弟子たちを派遣する時に、悪霊を追い出すことと福音を宣教することは車の両輪でした(マルコ1:39)。つまり、聖書は悪を単なる概念ではなく、明らかに私たちを狙って働き、撹乱させ、分裂させていく意思としてみています。—私たちもそういう体験があるのではないでしょうか。それは、個人から国家に至るまで「自分たちだけ良ければいい」という今の現実のことです。ですから、フランシスコ教皇は、主の祈りの「悪からお救い下さい」を「悪魔から」と訳すべきだとも仰る。このことに私たちは目覚めているべきです。教会、あるいは個々の人間関係の中にすでに、ウクライナでの惨禍に至るまで広がっていく、その根があるのですから。

 (文責・月刊誌編集部)

 


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