永遠の命とは…

いちじく桑の木登り—わたしの教理問答(再) 
石居基夫(日本福音ルーテル教会牧師、ルーテル学院大学学長)お相手・吉崎恵子(日本FEBCメイン・パーソナリティー)
9月19日(火)放送「第25回 復活—愛の生き方へ—」

FEBC月刊誌2023年9月記事より

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石居 今日は、私たちに約束されている永遠の命と復活の命について考えたいと思います。


吉崎 以前、中学生の男の子が「僕は永遠に生きるなんてイヤです」と言っていたのがすごく印象に残っていて…。


 確かに、時間が永遠に続くと考えると、辛いことがずっと続くのは嫌だと思いますよね。でも、ヨハネ福音書は永遠の命についてこう語っているんです。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)「知る」とは、神との交わりに生かされていることを味わい知ること。そして、そのためにキリストが私たちの所に来て下さった。そこに永遠の命の喜びが始まるのですね。これは、生と死を越えた本当に大きな約束だと思うのです。


 ということは、私も既に永遠の命を生き始めているんですね?


 そうです。私たちの人生は有限だし一回きりです。その辛いことや苦しいことやいろんな時がずっと続くということじゃなくて、その全てに慰めと癒しが与えられて、そして神様の永遠の内に祝福されている。そう約束されているんですね。


 使徒信条では「永遠の命」と共に「体の復活」を信じると告白しますよね。


 はい。「霊の復活」じゃなくて、「体の復活」と。私たちは、この体をもって生きているんですよね。それ故の苦労もある。でも、この体をもった私こそが、まさに私なんですよね。以前、教会に、いつも僕に手をパッと差し出すおじいちゃまがいらしたんです。ごつごつした、傷だらけの手、その人が苦労してきた手を。彼が「生きた」っていうことは、そういうことだなぁと、その手を握って思いました。その体をもって生きたこと、走り通したことに、神様が賞を与えて下さる。その約束を「体の復活」ということの中に望み見ることが出来ると思うんです。


 「体の復活」は、神様が私たちのこんな体をも、丸ごと愛して下さっているしるしなんですね。


 本当にそうですね。私たちのこの体を、イエス様は「要らない」とは言わないんですよね。そのイエス様は、「わたしと一つになることで、いつだってお前は新たになるんだ」と約束して下さっていると思います。それは、自分の過去も含めて、イエス様の赦しと愛の内で、そのストーリーを語り直すように新しくされていくということじゃないでしょうか。旧約聖書のヨセフのように。彼は兄弟に憎まれて奴隷として売られ、本当に苦労した。だけどエジプトで総理大臣の地位に就いたとき、兄弟たちがヨセフとは思わずに訪ねてくる。そこで彼は言うんです。「あなた方は私に悪事を企んだが、神様はそれを善きことに変えて下さって、あなた方をここに迎えるようにして下さったのだ」と。ヨセフはきっと、その時まで神様の計画も何も分からなかった。だけど、「あぁ、そうか」と。それによって人生は語り直される。彼にとって人生が全く変わることですよね。


 ヨセフのみならず、この私をも…。


 そうです。私たちは「どうしてこんなことが」と分からないことばかりで、もしかしたら生涯分からないかもしれません。でも主の恵みの所に招かれた時に、あらゆることの中に神様の御心を知ることが出来る。その恵みを慕い求めていきたいと思います。

 (文責・月刊誌編集部)

 


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