パラダイムを貫く共振


【新番組】私の救い、私たちの希望―宮城石巻読書の集い 
川上直哉(日本基督教団石巻栄光教会牧師)お相手・長倉崇宣
10月6日(金)放送「パラダイムを貫く共振」

FEBC月刊誌2023年10月記事より

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—宣教論の名著である『宣教のパラダイム転換』(デイビッド・ボッシュ著)の読書会を今教会でなさっておられるとか?

川上 はい。震災から5年ほど経って協力関係の持続可能性が問題になりました。つまりお金のことです。具体的にはクリスチャンが増えると訴えて献金を募って事業を続けようとされる団体があり、片や支援される方には裏切られたという思いを持つ方も出てくる。そんな中で、ちょうど日本基督教団東北教区の会合があり、ある牧師が「宣教って何か」を真正面から問う発言をされました。そこではハッキリした応答が出てこなかったのが気にかかり、その方に電話で読書会のお声がけしたのが発端です。


—なぜ、この著作を?

 眼の前の問題を教会の原点である古代にまで遡ってゼロから考え直してみようとしているからです。そこで初めて、日本の教会の「問題意識の正体」を見据えることができるのではないかと思うのです。


—それはどういう意味でしょうか?

 この本は南アフリカで教会がアパルトヘイトに最も苦しむ時に、白人によって書かれたもので、実際に著者のボッシュはその言動を教会の内外で批判されました。なぜなら当時の教会のあり方、すなわちキリスト教の宣伝流布のためと自らの勢力拡大を続けた西欧の姿勢を彼は厳しく見ていたからです。それはそのまま、明治期からそのあり方を伝道だと思い込んでいる私たちにとって、自らを見つめ直すことにつながるのではないかと私は考えているんです。

 さらに挙げるならば、ここではパラダイム・シフトの概念を用いている。パラダイムというのは、いわば「ものの見方の枠組み」のことで、時代が変わり、枠組みが変わると、それまで必死に守ってきたものが問い直され、見直されるということはよくあるわけです。それは私の個人の信仰においても、青年期には聖書は誤りなき神の言葉なのか否かが、「絶対に負けられない戦い」だった。しかし、そんなことで聖書の真理が揺るがされるはずはないのです。けれども、そのパラダイムの中にいる時はそうは思えない。つまり「これを外したら全てが壊れてしまう」と恐れさせるものは、案外救いでもなんでも無いかもしれません。それは逆に言えば、古代でも現代でも、あるパラダイムの中にいる私たち一人ひとりが「私にとって救いとは何か」を問われていることだとも思うのです。そこからしか、「宣教とは何か」の答えは出てこない。私たちの信仰の原点である古代に遡る意味がそこにあると考えています。


—とはいえ、「私が救われている」というリアリティをパラダイムの中にいる私たちが掴むことは難しいのでは?

 ある牧師が30年近く前、ご自分の教会のルーツを求めてアメリカの教会を訪ねたことがあったそうです。その際、ご自分の教会の現状を相手に説明したら、「博物館のようだ」と言われたと。つまり、150年前の礼拝を日本でそのままやっていると驚かれたそうです。もちろん古いから駄目なのではありません。ただ、「これでないといけない」と思い込んではいないか。その恐れや囚われから解放されないといつの間にか博物館の中に閉じ込められてしまうのではないでしょうか。
 古代から教会もパラダイムの転換を経験してきました。だからこそ「私の救い」のために変わらずにあるものをキリスト者は教会に見出してきたのだと思います。だからこの信仰には、信仰共同体が必要なんです。だって、この信仰の面白いところは、「私の救い」を何とか手にするために、あの人を許したり、その人と一緒にいないといけないというひどく面倒で回り道とも思える不思議な構造になっている。それは自分だけ救われて、後は放っておくようなものは福音とは言わないということです。


—この信仰はとても実存的なのですね。

 「実存」という言葉は、「皆のもの」という言葉と「そこからはみ出る」という言葉で出来ているそうです。つまり、皆が持っているものに安んじていたら実存は出てこない。ですが、危機的な状態、自分が生存競争から滑り落ちてしまうような今の状況の中だからこそ、「実存」や「私の出来事」ということが初めて出てくるのだとも言えないでしょうか。弱さや破れは厄介者なのではなくて、もっとも大切にしなくてはいけないものだと思うんです。


—では、そう仰る川上先生にとっての実存、つまり今ご自身が直面しておられる危機とは何でしょうか?

 具体的なことで言えば、東北ヘルプはこの5年間ずっと献金が減っている中で、考えないではいられないことがあります。例えば震災での原発事故による、いわゆる「放射能の雲」が通った地域のデータを取ると、その前後で白血病の数が若者の間で激増しているんです。しかし、2015年からはそのデータは取れなくなってしまいました。そういう社会、「別に何てこと無いでしょ」としていく世の中に、私の実存があるのです。
 教会も少子高齢化でどんどん縮んで悲鳴のような声が上がっている。これも「仕方がない」と言って済ませることができるのかもしれません。けれども、私は「これでいいのか」とどうしても思ってしまうんです。それは結局、私はキリストの復活の力を知らされたからなんですね。
 イエス様は復活されたんです。この事を知らなかったら「世の中こんなもんだろ」と思って、どうやってこの現実を上手く乗り切ろうかとだけ考えるでしょう。しかし、絶望的でどうにもならないようなことの只中に、イエス様が本当に復活された。復活の主が今ここにいる。さらに私たちは聖書と教会を通して知っていますよね。キリストの復活の裏側にはキリストの苦難があることを。

 私たちの苦難もまた全部が個別的で具体的で皆違います。しかし不思議なことに、それゆえに共振する。コンパッション(共感)という言葉は、苦難(パッション)を共に(コン)するという意味ですよね。だからこそ「一人」に拘る。そうしないと、私たちは本当には他者と繋がれないからです。それは私たちが共に心震わせるのは、自分たちの出自や利害や興味関心とかではないからです。なぜなら、そういうものの中にある「共に」は、私たちの理想や願望の偶像となる可能性があるからです。教会も例外ではありません。私たちは、痛みとか悲しみにおいて一つとされる。その時に鍵になるのが、復活のキリスト。この御方がおられなければ、多分一時的に共振したとしても、そのまま崩れていってしまうでしょう。私たちに出会って下さる御方、復活したイエスが、ご自身の痛みにおいて私たちに共鳴した時に初めて、コンパッションの真の意味を持ってくるのではないかと思うんです。

 (文責・月刊誌編集部)

 


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