日没から始まる神の安息

罪人の頭たちの聖書のことば 
石垣弘毅(日本基督教団中標津伝道所牧師)お相手・長倉崇宣(FEBCパーソナリティ)
11月30日、12月7日(水)放送「『このことを信じるか』―教科書通りの答えを捨てて」 (詩編92、ヨハネ11:17〜27)

FEBC月刊誌2023年12月記事より

・・・

賛歌。歌。安息日に。
  いかに楽しいことでしょう
  主に感謝をささげることは
  いと高き神よ、御名をほめ歌い
朝ごとに、あなたの慈しみを
夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは
  十弦の琴に合わせ、竪琴に合わせ
  琴の調べに合わせて。
主よ、あなたは
御業を喜び祝わせてくださいます。
わたしは御手の業を喜び歌います。
  主よ、御業はいかに大きく
  御計らいはいかに深いことでしょう。
愚かな者はそれを知ることなく
無知な者はそれを悟ろうとしません。
  神に逆らう者が野の草のように茂り
  悪を行う者が皆、花を咲かせるように見えても
  永遠に滅ぼされてしまいます。
(詩編92:1〜8)

 イスラエルでは金曜日の日没から安息日が始まるんですよね。
 日没。
 それは、一日のあらゆるわざを終える夜が始まる時です。
これから何も出来なくなる時です。

 朝を一日の初めと考えると「これからやるぞ!」という感じで、どうしても人間が主語になっちゃいますよね。でも、この夕べから始まる一日の初めは神様が主語。それが安息日の始まりなのではないでしょうか。
 罪が勝ち誇るような日常が終わり、
 今、安息日を迎えます。
 それは神様が全て引き受けてくださる時ですよね。そこでは私が日中に味わってきた罪の力は完全に打ち砕かれてしまう。イエス・キリストが十字架に架けられて私たちの罪のために死んでくださったという事実があるからですよね。そこで初めて私達は、この歌を歌える。

「いかに楽しいことでしょう…   主よ、御業はいかに大きく  御計らいはいかに深いことでしょう」(詩編92:2、6)

この詩編の響きの中で、今日の福音書の言葉に耳を傾けたいと思います。


***

マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
(ヨハネ11:21〜27)

石垣
 この箇所、長倉さんはどう思います?

長倉
 なんか噛み合ってないというか…。

石垣
 そう!噛み合ってないんですよ。例えば「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」「あなたの兄弟は復活する。」これって、話が繋がってないんですよ。だからマルタも戸惑ったんじゃないでしょうか、「私の話、聞いてたのかな…」って。イエス様はマルタの聞きたいことには一切答えずに「あなたの兄弟は復活する」っていきなり宣言されるんですよね。家族を亡くしたばかりの人に声をかける難しさを考えると、何というか…。

長倉
 はい。例えば、カウンセリングではこのような場合は傾聴が大事にされますけれど…。

石垣
 そうなんですよ。イエス様はここで全然傾聴してない。カウンセリングだったら、ありえません。だからこそ「この対話のチグハグさ」が、福音だなって私は思うんです。

長倉
 えっ、どういうことですか?

石垣
 私たちは、人間を主語にして考えると、その世界から抜け出ることは決して出来ないと思うんです。例えば、罪の問題もそうです。「私にはこんなに罪がある、これは赦されるはずがない」と仰る言葉を傾聴することは出来ます。でも、福音というのはそれとは全くチグハグに、突然神ご自身の言葉として「あなたの罪は赦されている」と聞かされる。
 だから、イエス様は畳み掛けるようにチグハグなことを仰るんですよね。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言ったマルタに対して、イエス様は「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」という件です。

 マルタは「知っている」と言っているのに、イエス様は「信じるか」と問われるのです。このイエス様の問いこそがマルタの隠れた不信仰を露わにしているのではないでしょうか。

長倉
 そうなると、27節のマルタの言葉は「はい、そんなことは分かってます!信じてます!」っていう感になりますよね。

石垣
 だから、イエス様は問いを変えながら、ここでそういうマルタを見つめ、その心を開こうとしておられるんじゃないでしょうか。

長倉
 そうですね。確かにマルタの受け答えは、どこか教科書通りというか一般論というか…。でも、それって私たちもよくやることですよね。

石垣
 そうなんですよ。そういう一般論って虚しいんです。私の理解できる範囲の神様のことだからかもしれません。なぜ、そうなるんでしょう?私たちが神様の前で沈黙出来ないっていうことなんだと思うんです。今回の詩編92編は、まさにそれがテーマだと思いませんか?私たちはいつも「私」がまず動き出してしまう。でも、この現実の中で神は何をなしておられるのかは、自分の言葉を捨てて、自分を沈黙させ、ただ私に語りかけられるイエスの言葉を聴いていくところでしか見えない。裏を返せばそこでこそ、私たちは神のわざを見ることになるんです。私たちが黙し、心から安息する時に、そこで神様が語って下さる言葉がある。それはもう、私たちの経験の中では収まりがつかないことなんです。

 今日の聖書箇所はまだ続きがあります。マルタとマリアの愛する者を失った悲しみが続いているからです。それは「神学」はもちろん、「聖書にはこう書いてある」なんて話でもない。苦しいものは苦しいし、悲しいものは悲しい。だから、この話はここで終わらずに続いていくんです。それはキリストだけが、私たちのこの悲しみにどこまでも寄り添い続けていかれるからです。だからこそ、私たちも、自分が抱えている苦しみや悲しみを聖書の言葉で納得させようとしてはいけない。そうではなくて、あなたの悲しみに同伴されるキリストを感じるんです。それこそが、詩編92編が歌う賛美の道であり、キリストから私へのかけがえのない言葉を待ち望むことだと思うんですね。

 (文責・月刊誌編集部)

 


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