まず、今日を生きることを

いつも、そしてともに―マタイによる福音書(再) 
井幡清志 (日本基督教団石動教会牧師)
1月2日(火)放送「今日を生きよとの御旨に支えられて」マタイ6:11

FEBC月刊誌2024年1月増刊号記事より

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わたしたちに必要な糧を今日与えてください。 マタイ6:11

 イエス様がこの祈りを教えてくださった際、あなた方の食べ物は神様から与えられるんですよ、だから感謝することが大事ですよと、食べ物をいただくときの信仰者としての心構えを教えられたのではないと思います。この祈りを教えてくださりながらイエス様は、神様のお心の中にある、ある思いを私たちに示してくださっているのではないかと思うんです。「必要な糧を今日与えてくださいと祈りなさい」というのは、単に食べ物が与えられる、与えられないということではないと思います。私たちが今日生きることを、神様が良しとしておられる。だから、今日あなたは生きなさい。そのような言葉としてこの祈りを聞いたときに、私はここにイエス様の本当に深い憐れみがあるということを痛感致しました。

 主の祈りはこの祈りの後、「わたしたちの負い目を赦してください」(12)に始まる祈りが続いていきます。そこでは私たちの負い目、つまり神様に対する罪、罪の赦しに関わること、信仰の中心の事柄が出てきます。しかしイエス様は私たちに祈れとおっしゃったときに、そういうことではなくて、必要な糧を今日与えてくださいと祈りなさい、そうまず最初に教えてくださったんです。私たちの罪からの救いのためにイエス様はこの世に来られたんです。主の祈りで言えば、この後に続く祈りの中身を成就するためと言ってよいのです。それゆえにこそイエス様は十字架の苦しみを受けたわけです。ですから普通に考えるならば、私たちに祈りを教えてくださるときにはまず、罪からの救いを願い求めなさいと仰るものではないかと思います。この順番で言えば12節以降が先に来た方がしっくり来るのです。ところがイエス様はその前に、私たちが生きるための祈りをすることを許してくださったんですね。この祈りをまず祈れと教えてくださったことに、神様の深い愛がよく現れていると思います。悔い改めなければ今日生きるための糧を求める資格がない、神様はそんな仰り方はなさらないんですね。

 私たちは愚かで、信仰の整わない、神様のことがちっとも分からない、そういう姿を繰り返し続けている者です。でも神様はそんな私たちの姿を問うよりも、今日生きよと仰ってくださっているのではないでしょうか。自分の現実、自分の姿に暗たんたる思いを抱くことがあります。日々の暮らしの中で壁にぶつかったり、背負った荷物の重さに倒れそうになることもあります。不甲斐なさや弱さ、愚かさに躓くことがあります。こんな自分が生きていて意味があるんだろうか、こんな私じゃ神様にふさわしくないんじゃないかと。けれどもイエス様はまず「必要な糧を今日与えてくださいと祈りなさい」。そう仰いました。破れに満ちた私たちが、まず生きる。このことが神様によって許されている。だからそのことを祈りなさい。そうイエス様は教えてくださっているんですね。神様がお造りくださり、この世に生かしてくださった、この私たちの小さな、時に破れに満ちた命、それをどれほど慈しみ、惜しんでくださる神様であるか。それをこのイエス様の教えてくださった祈りの言葉の中に知ることができるのではないでしょうか。

 (文責・月刊誌編集部)

 


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