原罪

生きるとは、キリスト 
小林和夫(日本ホーリネス教団東京聖書学院教会牧師)
2月16日(金)放送「 罪からのきよめとしての聖化」ローマの信徒への手紙6:5~14

FEBC月刊誌2024年2月記事より

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 日本語には、聖書でいう罪の概念がないんですね。ですから、何か悪いことをしたことが罪だと日本人は思うのですが、聖書では決してそうではない。神様から離れて歩むことが「罪」。そして、この罪には二つの性質があると聖書は提示するのです。その一つは、行いとして外に出てくる「行為罪」です。

 ローマ人の手紙1章の29節以下には、たくさん出てきます。

すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と 悪念とに満ち、また、ざん言する者、 そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語 する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、 無知、不誠実、無情、無慈悲な者となって いる。(1:29~31)

 キルケゴールが「人間の実存とは、神の前に立つ罪人である」と言ったように、こういう罪の上に神の怒りが臨むと聖書は言いますから、救われうる人間は一人もいないのです。


 さて今日問題とするのは、この行為罪とは別のもう一つの罪についてです。ジョン・ウェスレーという人が、こう言いました。「 私たちはイエス様を信じ、罪を赦されて、永遠の命を与えられている。だが、クリスチャンになってからも、自分ではどうすることもできない罪がある」と。これを聖書は、古き人、あるいは内住の罪と言いますが、ひっくるめて原罪と言い表されます。

 使徒パウロが悩んだのもこの点でした。
 パウロは、ロマ書の7章で「我が欲するところの善はこれをなさず、かえって欲せざるところの悪がこれをしてしまう」と繰り返しています。彼は本当に苦しんだのでしょう。そしてついに「私は何という惨めな人間なんだろう。誰がこの死の体から私を救ってくれるだろうか」と叫ぶに至ります。
 その時に神様はパウロに語りかけられた!「パウロ。お前の内に住んでいる罪からお前を救うものは、十字架だぞ。十字架を仰いでごらん」と。ここにパウロは確信をもって立つことになります。

…わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。(6:6)

 私の罪という実態が、キリストと共に十字架につけられている!これがきよめの恵みです。パウロは自分というものをよく見て、とことんまで突き詰めて、イエス様に救いを求めた。福音っていうのはここまで来なければ、福音じゃない。

 ではどうしたら、この恵みを受け、きよめられることができるか。
 8節を見てください。

もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。

 もう一つが、13節です。

また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から 生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。

 二回も「神に捧げ続ける」って言っています。自分自身とは、意思ですよ。そして、その肢体というのはこの体を持った存在です。

 だから皆さん、ご自分の経験を聖書の標準に従って整理なさったらいいんです。きよめの経験とはこういうものなんだよと聖書が言ってる言葉で、これを整理して皆さんが掴んでおく必要がある。
 私たちは、自分の人生のどこかで転機的に決断して、このきよめの訪れを聞いたんです。だから、信じて、自らを捧げることによって、私たちを支配する内住の罪から解放されようではありませんか。

 (文責・月刊誌編集部)

 



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