この人を、見よ

『暗闇の中の光―ヨハネによる福音書―』 
藤盛勇紀(日本基督教団・富士見町教会主任牧師)
3月6日(水)放送「見よ、この人を」ヨハネによる福音書18章38節~19章16節

FEBC月刊誌2024年3月増刊号記事より

・・・

イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」(ヨハネ19:5~11)


 「見よ、この男だ」(5節)

 総督ピラトは群衆に言います。この情けない男がお前たちの王だというのかと。神の子なのかと。だったら一体神は何をしているんだ。神の力などどこにあるのか。この情けない男を見よと神の民に言うのです。

 それに対して群衆は高ぶっています。喜んでさえいます。しかし私たちはここで、思い違いをしてはなりません。イエス様だけがただ一人で暗闇の中に立たされ突き出されて、私たちは安全なところからそれを眺めているというようなことを想像しているのだとすれば、それはとんでもない思い違いです。本当に暗闇にいる者、そのことさえ気づいていない者とは誰でしょうか!本当に惨めな者。それは、群衆であり、この私たちです。

 かつて第二次世界大戦が終わった時、当時ヒトラーに支配されていたドイツの中で、ナチに抵抗して生きた信仰的な英雄に光が当てられました。その中の一人にマルティン・ニーメラーという牧師がおりました。彼は8年間獄中にあり、戦後まもなくアメリカ軍によって解放されます。ところが、解放されて光の中に立たされたこの人は、「今我々は、闇の中にいる」と語りました。「闇の中で我々は、自分の力で再建しようとしている。闇から光へ自分の力で移ることができると思い込んでいる。しかし人間はまた闇に戻るに違いない」と。ナチに抵抗して戦った人たち。正義の側の人の中にもある罪。それに気づかないままでは、人間は暗闇から暗闇への堂々巡りを続けるだけだと彼は言うのです。それは彼自身の中に確かにある罪への自覚です。それは、私たちが自分たちでやっていけると思っていることです。神なしでやれる―それが聖書の言う罪なのだと。人間はどれほど悲惨な経験をしても、決して自分は救われなければならない存在だとは思っていません。そのようにして、誰も彼もが神をないがしろにし、侮り、もっとはっきり言えば、神を殺している。あんなものなくても良い。邪魔だ。それは既に殺しているということです。たとえ今が暗くても、自分たちの力で、良き業で、光を生み出していける。神様なしでも光に生きられる。それは全ての人間が繰り返している堂々巡りなのです。

 このヨハネによる福音書は、1章の初めの所でこのように語っていました。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(1:5)。暗闇の自分が否定されてしまうからです。しかしそれは、暗闇の中の堂々巡りであり、出口のない本当の暗闇なのです。

 今、私たち人間の前に、惨めな姿で突き出されて、ただ沈黙しておられる御方がおられます。ピラトはこの惨めな人を指して蔑んで言います。「見よ、この男だ」。

「見よ、この人だ」というこの言葉ですが、この人、正にこの人にまことの光がある。いや、この御方こそが、まことの光、まことの命。そのことを証しするためにヨハネはこの福音書を記したとさえ言えるのです。ピラトが蔑み、ユダヤ人たちが捨てた御方。ここに、私たちの主、私たちの王がおられると。この方を受け入れるかどうか。この方を信じるかどうか。

 惨めな姿をとって、私たち人間の前に引き出されたこのイエス、十字架のイエス・キリストが私の主であり、まことの王であると信じること。それは自分に死ぬということです。自分が自分の主であろうとする私に死ぬ。神なしに生きようとする私に死ぬということです。そして神を殺そうとするこの私を、自分で手放すことです。ここから、神の命に生きる道が始まるのです。

 (文責・月刊誌編集部)

 


 月刊誌「FEBC1566」購読申し込みページへ>>