この人を、見よ

FEBC主催  岩島忠彦神父講演会 主イエス・キリストの受難と死(再)  
岩島忠彦(イエズス会司祭、上智大学神学部名誉教授)
3月29日(金)、 3月30日(土)放送

FEBC月刊誌2024年3月増刊号記事より

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イエスは弟子たちに言われた、「あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう。」(マルコ14:27)

 私たちもこの道行きにおいてどこかでつまずく。普段熱心な信仰もどこかで。なぜなら、そこまではついていけないからです。必然的なつまずき―では、何につまずくのでしょうか。神様の愛につまずくのだと思います。


イエスの苦しみの本質

一同はゲツセマネという所にきた。そしてイエスは弟子たちに言われた、「わたしが祈っている間、ここにすわっていなさい」。(マルコ14:32)

 ここでイエスは怯えておられます。父である神から見放されていく経験をするために園に入っていかれるからです。最も空しく苦渋に満ちた十字架、その死に至るまでの。ここに神と人との関係の奥義があります。神の強さが人間の弱さの中に入ってこられた。そうでなければ神の愛は私たちの本当の救いにはならなかった。こうしたことは私たちの理解を超えることです。私たちは神様の掟を守っていれば人生は順調に進むはずであると考えます。しかしイエスご自身、受難と苦しみの中で無力さを味わい、あらゆる者に無視された中で新しい契約を実現された。このことを私たちは思うべきです。

 一体このイエスの苦しみの一番奥にあるのは何なのでしょうか。人間のこの悪あの罪ではなく、罪の深淵のようなもの。そうしたものとイエスはゲッセマネにおいて対面していた。それは人間の生のあらゆる次元に浸透していかれたということです。だから人間の悪いものが与える暴力が大きな苦悩となっていくのです。しかも彼がそれで示そうとしていたのは「あなたがたのために与えるわたしのからだ」「あなたがたのために流すわたしの血」(ルカ22:19、20)。つまり彼を殺そうとする人々と一体となる。ここにイエスの苦しみの本質があります。

アバ、父よ…どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままに(マルコ14:36)

 イエスはその杯を取り直しました。だからこそミサごとにこの新しい契約の杯に私たちは与る。それは彼がこの杯を受けとめたからです。
私たちも誰も助けてくれない場に自分がいることがあります。その時にこのゲッセマネという場を必ず考えるべきです。先に神がおられる。神様の愛がそこに住み着いている。


キリストの死を死ぬ

人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。(マルコ10:45)

 イエスの使命は死ぬこと。これは私たちが考えるように最も何かをやっている、務めを果たしている時が本当の使命かどうかわからないということです。むしろ私たちの生のあらゆること―生活の重荷を耐えることや、死ぬことさえ私たちの召命の大切な場なのではないかと思います。人の役に立つかというような表面的なことだけではないです。キリストが自分の最大の使命を苦しみ死ぬことに置いた。そのような使命に私たちも与ることです。私たちが弱った時、見捨てられた時、そうした時にもしかしたら非常に偉大なことを行っているかもしれません。
 死を前にした時、その先は壁のようです。しかし、そのようなものをキリストも死なれたのです。ただ、キリストの死は私たちの死と同じではありません。彼は完全な神の意志への従順において死んだのです。「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。」(イザヤ53:4)とあるように。「我が神、我が神、なにゆえにわたしを捨てられたか」と叫ばれたほどの従順です。だからこそ、そのキリストの死においてキリストと共に死ぬことによって私たちは神を賛美することができる!それはキリストも楽々と通った道ではないけれど、確かにその道に伴うことによって私たちにもできる。キリストの死を死ぬことができるのです。そして、このキリストの十字架の死の意味というのは全ての人に関係があることです。全ての人の罪の現れであり、神の愛が最高度に示された時点。
 私たちは教えや外的な事柄にだけ目が行ってしまって、キリストがどんな心を持っていたか忘れてしまう。しかしそのことが一番大切です。見えないからすごく難しい。しかしそのことがなければ他は全てあんまり意味がないんです。キリストの心がどれほどのものであるか、自分の経験に照らし神の慈しみの福音に照らして慮る。その時に必ず神の応えを感じ取ることができる。私たちの中にもあらゆる苦しみ、私の十字架、そうしたものがある。そうした時はそこにキリストの心を分けていただく時なのかもしれません。
「イエスの死をこの身に負うている。」(2コリント4:10)この十字架の前で私たちは自分の思い描きもしない神の命をいただくのです。

 (文責・月刊誌編集部)

 


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