信じられない者と共に

イースター礼拝 全地よ、主をほめたたえよ 
青木 豊( 日本キリスト教会高知旭教会牧師)
3月31日(日)放送「言葉が新しくなる喜び」マルコ16:12~20

FEBC月刊誌2024年4月記事より

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 イースターを祝うにあたって、マルコによる福音書16章12節以下を読みましたが、本当は9節から読もうと思っていました。実は迷いがあったからです。

 聖書には、原本が存在せず、あるのは写本だけです。しかも写本には、8節までの写本と、9節以下が書かれている写本とがあり、つまり9節以下は誰かが書き加えた箇所ということになるわけです。更に9節以下は、他の三つの福音書の要点のまとめだと言う人もおり、もし本当にそれだけのことなら丁寧に聞く必要はないと思いました。
しかし、そうではなかった。ここは、他のどの福音書とも違っています。つまり、自分の言葉で語り継いだのです。ならば、ここにはここでしか聞けない神様の御言葉がある。それは何でしょうか?

 ここから始まる箇所では、あることが強調されて語られています。それは「信じなかった」ことです(マルコ16:11、13、14)。つまり、弟子たちが主イエスの復活を信じなかったことが明らかに強調されています。そして、それを主イエスが「おとがめ」になったのです。この言葉は実はきつい言葉で、「罵る」とも翻訳をされるものです。

しかし、その上でイエスはこう言われた。

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(16:15)

驚きます。聞いても信じない弟子たちに、お命じになったのです。
しかし、ここに誠に深い神様の知恵がある。それは何でしょうか?

19節以下でこのように語られています。

主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。 一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。(16:19、20)

 ここに書かれていることは、私どもの経験と重なるのではないでしょうか。今日の私もそうでした。イースターに子供の集いをしようと考えて、一週間前に小学校の近くで100枚ほどチラシを配って用意をしていました。しかし実を申しますと、ためらう気持ちがあった。近頃では学校の先生に「やめてください」と言われるかもしれないからです。でも、とにかくやってみた。しかし残念ながら、子供は一人も来ませんでした。そして、私はやっぱりと思ってしまった。
ところが、今度高校生になる子が同級生を連れてきたのです。そんなことは考えてもいませんでした。私どもの思いがけないところで神様がお働きになったのです。

 ここで遣わされた弟子たちも、確信があったわけじゃないですよね。けれど、御言葉を語る時、主イエスが働いてくださるのです。だから、語る者も聞く者も共に主イエスに聞き共に主イエスに出会う。

主イエスはこうおっしゃいます。

「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」 (16:16)

 ドキッとする言葉です。しかし、弟子たちはそう言われて、「信じなきゃ滅びるぞ」と他の人に語れたでしょうか?いえ、そんなことはありえないのです。なぜなら弟子たちも信じることができず、確信のないうちに送り出されたのですから。だから「信じなかったこの私を、主イエスはお見捨てにならず、神様のお働きに与らせていただいている」と、そう語る他ないじゃありませんか。

 そうです。私どもが語るのは主イエス・キリスト。神の御子であるにもかかわらず、私どもと同じ罪人になり、私どもが受けるべき神様の裁きをお受けになった御方ではありませんか。その御方が復活なさったのです。

 当時は迫害の時代です。いつも迫害の重みがその当時の教会の上にありました。だからこそ9節以下を書いた人は、自分たちに重ね合わせて、神様の御言葉を聞いた。主イエスは罪と死に勝利なさったのだけれど、教会はその喜びに生きていない。死が私どもの心を重くして、私どもは無気力になっている。

 しかし、主イエスはそのような弟子たちをお用いになった。それは私どもも同じなのです。まず私どもが信じて、それから主イエスの働きに与るという二段階構造ではない。信じられない者が、主イエスのお働きを体験し続けて、主イエスを信じていく。信じられないことと、信じることのこの二つは絡まり合って進んでいくのです。9節以下を語った人は、そのことを私どもに語っているし、私どもの現実もそうなんじゃないですか。

だからこそ、この歩みをどこかで始めなければならない。
そのために、主イエスは弟子たちをおとがめになった。
これは誠に深い愛の言葉なのです。

 ここで遣わされた弟子たち。それは、主イエス・キリストが罪と死に打ち勝ってくださったのに、心を頑なにしている私どものことです。そのような私どもに、主はお告げになるのです。 だから、私どもは語り継いでいく。信じない者が信じる者へと変えられていく喜びを。
「私も信じない者でした。けれど、憐れみ深い主は、私を立ち上がらせてくださいました。確信を持って歩んだわけではありません。迷いながらでした。しかし主イエスはともに働いて、喜びで満たしてくれました。」 それこそが、復活の命を生きるということでしょう。
そうです。主イエスは、死んだような私どもを生かして、真の命を味わわせてくださる。たとえ私どもが死んでも、その命を死によって終わらせることはなさらないのです。

 主イエスの御言葉をもう一度聞こうではありませんか。そして、聖餐にあずかろうではありませんか。私どもの罪のために十字架に死に、復活し、今も私どもと生きて働いておられる方、その御方と一つにされたことを、聖餐によって味わおうではありませんか。

 (文責・月刊誌編集部)

 


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