怒り、悲しむ主の御顔のなんたる恵みに溢れたことか


喜び、ここにはじまる —マルコによる福音書(再) 
平野 克己 牧師(日本基督教団代田教会牧師)
11月12日(土)放送「かたくなな心を柔らかに」 マルコによる福音書3:1~6

FEBC月刊誌2022年11月記事より

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イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。(マルコ3:1~6)


 安息日に、人々が会堂に集まっていました。なぜ集まったのか。当然、礼拝を捧げるためです。その礼拝の真ん中に、主イエスがおられました。主イエスはこの時、一人ひとりを見回しました。その時、主はいったいどういうお顔をなさっているか。2章1節以下からここまで、マルコは律法学者やファリサイ派の人々について書き続けてきました。私どもと重なり合うことに気づいて欲しいと願っているのです。その総仕上げが今日の箇所です。


主は、はっきりと戦いを挑んでいる

 ここで問題になっています事は、礼拝にいた、たった一人の人の手が萎えているのを、主イエスが安息日に治したか、治さなかったかという事です。安息日は、みんな徹底的に休まなければいけない、神の前で憩う礼拝の日だからです。ファリサイ派は熱心でしたから一生懸命その事を守りました。安息日に病を癒してはならない、しかも、命にかかわらない病気ならば、安息日が終わるのを待てばいいのです。片手の萎えた人は、もう何年も萎え続けながら、この会堂に集まっていた人に違いありません。日が暮れれば安息日は終わります。主イエスは、日が暮れるのを待ったらよかったのです。「安息日が明けたら治してあげよう」、そう言えばよかったのです。しかし主イエスは、あえて治すのです。


 ファリサイ派の人たちだって、始めから主イエスの教えや業に反対だったわけじゃないと思います。ところが、主イエスはどうも伸びやかにふるまうのです。罪人と食事を平気でするし、断食をしないで喜びの祝宴を繰り返します。安息日にも自由にふるまいます。ファリサイ派の人々には、その主イエスが節操のないように映るのです。気にくわないのです。そこで、イエスを訴える口実をつかもうと思って会堂の礼拝席に座ります。「イエスはどうするか、癒したら訴えてやろう」と、わなを仕掛けます。そのわなにはまるようにして、主イエスはあえてこの人の手を癒されるのです。これは激しい主のお姿だと思います。主はここで、はっきりと戦いを挑んでおられるのです。主イエスは手の萎えた人におっしゃいます。「真ん中に立ちなさい」(3:3)。片手は萎えていたけれども、もう片方の手は自由です。わざわざ主イエスに触れて頂かなくても、もう慣れきっていたかもしれません。しかし、この男を、真ん中に引きずり出すのです。


手を伸ばす

 ここで、マルコによる福音書はこの男について実に細やかな筆遣いをしています。1節に「片手の萎えた人」、3節に「手の萎えた人」、5節に「その人」と「人」っていう字を三回も使っている。ここでは代名詞は使われていないのです。いちいち「人間」っていう言葉が使われています。これは実にめずらしい書き方なのです。マルコはあえてそう書いた。なぜでしょうか。私は思います。主イエスが癒そうとしたのは、この人だけじゃないのではないかと。というのは、私はここを読みながら、「本当にここに、私どもの姿があるなぁ」と思って悲しくなりました。私どもも、一方では人に優しくすることもできます。人を気づかうこともできます。ところがもう片方の手は、悲しいほどに萎えている。硬くなっているのです。その姿は、この場面ではファリサイ派の姿に映し出される。

  彼らは今、何をやっているのか。礼拝に集まっているのです。礼拝に集いながら何をしているのか。訴えようとしているのです。訴えるために集まっているのです。その心の冷たさは驚くべきものです。目の前で、おそらくずっと礼拝を共にしていた一人の仲間が癒されたのです。しかし、それを共に喜ぶことができない。さらに手が元どおりになると、ファリサイ派の人々はたちまち、イエスを殺そうと相談し始めるのです。「手を伸ばしなさい」。これは、このファリサイ派、いや「人間」—私ども全てに語りかけられている言葉です。


 ここで改めて思うのは、安息日に癒すことが善いか悪いか、その事を自分の正しさを物差しとして問うている時に、体に痛みを負って心まで傷んでいるかもしれない人間がすぐそばにいることに私どもが気づかなくなっていることです。礼拝に集まっている人々の心が、既に心を失っている。心が死んでしまって、裁きの心を抱え続けているのです。その私どもを、主はじっと見ておられます。その私どもの姿を、主は怒り、悲しんでおられます。私どもはどうしたらいいんだろうか。もう一度、幾度でも、この聖書の箇所を繰り返し読んだらいいのです。主は仰る。「真ん中に立ちなさい。私の前に来なさい。手を伸ばしてごらんなさい。」


主のお顔の前に

 マルコは、この場所に十字架が始まったという事を忘れずに書き留めた。このようなファリサイ派のために、このような私どものために、主は十字架に赴いて下さったからです。主は私どもを怒り、私どものかたくなさを悲しみながら、しかし私どもを見つめ続けていて下さいます。おかしな言い方かもしれません。しかし、その怒っておられる主のお顔、悲しんでおられる主のお顔の、なんたる恵みに溢れたことか!その主のお顔の前で、ひざまずかざるをえません。それ故、私どもはその主のお顔の前に出て行かざるをえない、祈らざるをえないと思うのです。

 (文責・月刊誌編集部)

 



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