重荷をおろす人

一期一会のみことば 
加藤 智(カトリック・さいたま教区司祭)お相手・長倉崇宣
1月6日、13日(土)放送「触れて、抱くことを許された光」マタイによる福音書2章1〜12節

FEBC月刊誌2024年1月記事より

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 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。

『ユダの地、ベツレヘムよ、 お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。 お前から指導者が現れ、 わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」  そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。(マタイ2:1〜12)

長倉
今回は神の救いがユダヤの民を超えて異邦人に示されたことを記念する「主の公現」の主日の聖書箇所ですよね。

 

加藤
実は私、イギリスで留学していた時に、学友から「東方の博士」と呼ばれておりました(笑)。まあ、実際東の国の日本から来た、かつては真言宗の僧だったので。しかも私は文字通り占星術を習っているんです。平安仏教の伝統で占法というんですが、天体の動きに人間の知恵を照らし合わせる学問があるんです。神仏というのは遠い存在であり、その思いを探っていく試みになります。それは学問として一つの体系があるのですが、私自身はどこか靴の上から足を掻くようなぎこちない思いを抱いていました。つまり確証が持てないのです。いわば目で見て手で触れることができない。僧である私をいろんな不安や問題を抱えて訪ねてくださる方があって、時に占星術から助言するのですが、帰り際に後ろ姿に向かって私はいつも合掌していました。確信のないまま道を説かざるを得なかったからです。ですから、この学者たちの思いが痛いほどわかるんです。
 

長倉
確信がなかった…。

 

加藤
そうです。だから、何故彼らがイエス様を訪ねてきたのかって思いますよね。もし占星術に確信があれば何も他に求めるものはないわけです。そこに占星術の限界というか、人間の知恵で命の道筋を定めていくことの限界があるのではないでしょうか。その意味で、星は彼らの本当の答えではなかった訳ですよね。多くの人は正しく生きたいと思っています。でもその方法がわからない。だから本当に苦しむ。この東方の占星術の学者もそうだったのではないかと思います。しかし神様はそのような人を決して放っておかれないのです。

そこで、神様は星に答えを求めてはるばる来た彼らをキリストに導かれます。それは、それまでの人生が無駄だったのではないということです。しかし、彼らを待っていたのは「神が人となられた」という信じられない光景でした。確かに彼らも神が人間の思いを超えておられること自体は、よく知っていたはずです。自分たちの手に収まらないからこそ「天の星」なんですから。しかし本当の救いは、見て触れることが出来る!しかも、羊飼いたちのようにどんなに貧しくても、知恵がなくても、何もなくても、馬小屋に来て、まぶねのうちにおられるキリストを見て、触れ、抱く事さえ許されるわけですよね。だから私は思うのです。ユダヤの伝統とは無関係な異邦人の宗教を信じるこの占星術の学者たちは、イエス様を見て、きっとマリア様に「赤ちゃんを抱っこしてもいいですか」と訊ねたのではないでしょうか。もちろんマリア様はお答えになられたはずです。あなたに抱いていただくために来られたのだと。

イギリスには「抱いたキリストに抱かれる」という美しい聖餐体験を語る言葉があります。小さなパンにより、この身にキリストを抱く私が、むしろ抱かれているんだという事を知る。それはこのクリスマスの日、占星術の学者たちが体験したことであったのだと思います。神を抱くことが許された。いや、私は神に抱かれているという平安。星のように手の届かない天の高みにあるのではなく、神に抱かれて神を知る者とされるのです。彼らは別の道を通って帰ったとありますよね。なぜなら新しい人生が始まる。新しい命に生きるからです。

 

長倉
その占星術の学者たちと実に対照的なのはヘロデとエルサレムの人々ですよね。非常に不安になったとあります。

 

加藤
はい。ただ、その不安は占星術の学者にもあったと思います。というのは、仏門に生まれた私自身もイエス様に心が向かう一方で、今まで自分が頼ってきたものを捨てることは怖い訳です。何度も迷った。ヘロデ自身も民衆もヘロデが真の王でないと旧約聖書によって知っていました。しかし、自分たちがしてきたことに留まろうとする。それがいつの間にか真実だと思えてしまうからですよね。それが人間の知恵の限界です。それは私たちも同じです。だから私は叙階される時に厳しく言われました。イエス様と信者の間に土足で踏みこむな。あなたはキリストではないのだから、と。

学者たちの別の道というのは「生き方」です。ここで大切なことは、彼らはまた自分たちの世界に帰るということです。しかしそれは、もと来た道をたどるのではない。全く新しい生き方、命を与えられたものとして、自分たちの生活や、家庭に帰っていく。まさに伝道、宣教とはこういうことですよね。私は、主にお会いした。この方に会ってほしい。この方に抱かれてほしい。その時、占星術の学者はもう乳香、没薬という後生大事に持ってきたものを全部イエス様の足許に置いて帰っていく。身軽になって帰っていくのです。彼らはただ一つ、イエスのみ名だけを持って帰っていく。ここに占星術の学者が、苦しみの中でキリストに会い、本当に軽やかにされて、新しく生きていった姿を見ます。

 

長倉
彼らは本当は重荷をおろしたんですね。そしてそれが私たちの礼拝なのですね。

 

加藤
その通りですよね。全てに先んじてキリストがおられる。実にこれは日本の私たち、一人ひとりの物語ではないでしょうか。

 (文責・月刊誌編集部)

 


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